村松いえ松村です。

人への伝え方、伝わり方、広報、ブランディング、健康、語学、ピアノ

「自分が何者か」と考えるのはあんまり意味がない気がする

こんばんはー

 

 

 

またまた久しぶりの更新です。

 

毎日続けられるのがベストなんだろうけど、

なかなか難しいですね。

書きたい事が山ほどあるくらいアンテナも高くなってないんだろう、と思います。

 

最近は、一人でいると本当に何もしなくて罪悪感しか感じなくて不健康なので、

フットワーク軽く生活しております。

まあ好きな集団に属しているだけなので、心地よさしかありませんが。。

 

 

 

そんな生活を通して、ふと気が付いたことが

 

 

 

 

 

 

 

「話す人によって自分の性格が全然違う」

 

 

 

ということです。

 

 

 

 

 

 

ある集団では、ただ話を聞いて笑っているだけの空気的存在。

またある集団では、ふざけたことばっかり言って自分だけで笑ってる気〇い。

はたまた、ある集団では、割と真面目な話しをするけど、やっぱり抑えきれずバカみたいなことを言っている気〇い。

 

 

 

おかしいやつの要素が多い気もしますが、

真面目そうに静かにしている時もあれば、

割と荒い言葉遣いでにぎやかにしている時もあるし、

自分の中に相反する性格が混在していて、

それは属する集団、話している内容、その時の気分、などなど

色んな要素が原因となって出てきている自分の一つの側面でしかないのだと思います。

 

 

なので、話していて、「この人は寡黙であまり自分の話をしない人だな」とか、

「なんやこいつ、話尽きひんしめっちゃおもろいやん!」とか、

自分が受けている印象がその人の性格全てを表しているとは思わない方が良いと思います。

 

 

場所が変われば、静かだった人がガンガン会話を振っているかもしれませんし、

神がかり的に面白かった人が部屋の隅っこに追いやられ三角座りしているかもしれません。

 

 

自分の見ているその人が全てではないということです。

 

 

 

皆さん自身も経験がある気もしますが、

子供の頃、家で親と一緒にいるときの自分の態度と、学校や外に出て友達と一緒にいるときの自分で性格や言葉使いが違ったりしていませんでしたか?

 

置かれた条件が違えば、自分自身も変化する、それが自然なのだと思います。

あの有名なダーウィンも、「環境の変化に適応できるやつ最強!」って言ってますよね。人は、変化に適応しようと必死にしているのだと思います。

 

 

 

けれど、最近よく聞くのは、

「自分自身を良く知って性格を理解し、上手く自分と付き合おう」とか

「自分の得意を把握して、それを活かせるよう行動しよう」などなど、

自らを何かの枠組みの中に入れ込み、無理やり自分自身を定義しようとする行動が流行っている気がします。

 

 

一つ断っておくと、僕自身もそういうの大好きなんです。

ストレングスファインダーとか、性格検査みたいな類のもの。

それを読むと、「あー確かに、そうそう、こういう性格なんだよなー」と思えて

自分への理解が少し深まるような感じがします。

 

けれど、それってその性格だから常にその性格かというと

なかなかそううまくは人間できていないくて、

そういう時もあれば、こういう時もある、くらいの矛盾した性格を常に抱えている気がします。

 

それを、「この検査で私はこうだったからこうでなければいけない」とか

周りも「あなたこの性格なんだから、そんなこと言っちゃだめでしょ。」とか

「私はこういう性格だから、これは無理」みたいな、

よくわからない客観性を盾に自分の範囲を決めるのはいかがなものかと思います。

 

 

こういうときもあるし、そういうときもある、はたまたあんなときもある。

けど、それって全部自分で、まあそういうもんだよね、くらいに思えた方が楽だし、

あ、こんな自分もいるんだ、と思えた方が新しい発見に繋がりそうで

楽しい気がします。

 

 

 

 

 

新しい自分に気が付く。

 

 

 

こっちの方が自分自身を枠にはめて定義しようとする自己理解よりも

自分への理解が深まる気がします。

 

 

という事をちょっと思ったので、徒然なるままに書いたのでした。

 

 

 

では。